閉鎖的空間から生まれた極論の産物として、古谷氏が挙げているのが「組体操」と「2分の1成人式」だ。
学校空間が外部からの監視を受けず、物理的にも閉鎖的だったため、学校の内部でそんな危険極まりない『教育』と称したマスゲームが子供たちに強制されていることなど、多くの人々が知らなかったし、当然メディアのニュース・レーダーにも触れえなかった、というのが真相なのである
もう一つの「2分の1成人式」のほうは、実際に子供を学校に通わせている人以外にはほぼ知られていない「奇習」だ。これは成人の2分の1、つまり10歳になった子供(4年生くらい)に、「育ててくれた両親への感謝」を大勢の保護者の前で述べさせる、という儀式である。
この世には、両親が離婚、或いは不幸にして死別して片親となった母子家庭、父子家庭が存在するし、また、さまざまな理由で両親の元を離れ、親類や養父母、または養育施設で育ってきた子供も存在するのである。
例えば株式を上場している巨大な民間企業ならば、『入社5年目の社員に対し、育ててくれた社長・上司への感謝式』などという奇っ怪な儀式を行うはずがない。
組体操や2分の1成人式に縁がなかったとしても、学校の閉鎖性の産物の犠牲にあった記憶のある方は多いのではないか。かならず何人かはいる「とんでもない教員」である。
いじめなど学校で起きる多くの問題が、その閉鎖性に起因している可能性は高い。8万円制服問題にしても、校長が着々と計画を進めていることを、外部はほとんど知ることができなかった。これもまた学校という空間の閉鎖性ゆえである。
子供を学校に通わせるのは、今の日本では危険なのかもしれない。
こんなコメントもあった。
トップにおかしな人が着くと、誰も止められないのが学校組織の問題。学校長、教育長の権限が強すぎる。
当時、うちの子はいじめにあって辛い思いをしていた。
まじめな性格のため、親には心配をかけたくないと思い、欠席せずに
毎日学校に通っていた。
私は日々、先生方と戦っていた。
一時は「死」について考えていた10歳のころ。
二分の一成人式で「産んでくれてありがとう。迷惑ばかりでごめんね。
ちゃんとした子じゃなくてごめんなさい。私を育てるのは大変だったと思います。これからは迷惑かけないようにもっとがんばります。」と書いた手紙をもらった。
明日の事さえ考えられないときに、「将来の夢」をみんなの前で発表することは、拷問のように感じた。心を鞭でたたかれているようだった。
私は涙がこぼれたが、他のお母さんたちの流す涙とは意味が違う。
「十分がんばってる。そんなにがんばらなくていいよ。そのままでいい。そのままが大好き。」と伝えた。
コメント読んで泣きたくなった。